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hugo/content/blog/2018-10-04-private.md

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2024-04-23 13:21:26 +00:00
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date = "2018-10-04"
tags = ["private"]
title = "無投票の原理"
slug = "private"
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[https://twitter.com/nowthisnews/status/1047509832293441538](https://twitter.com/nowthisnews/status/1047509832293441538)
こちらの動画を見た。
内容は、高齢者が若者に、自分たちは投票をしてきた実行家であるが、あなた達は何もしない、だから政治的に悪い立場に立たされているんだ、というような感じのものだった。
しかし、これは私の認識とは全く異なっているので、今回はそのことについて少し書いてみようかなと思う。
まず、投票率についてだが、投票率が低いことが度々問題になっている。
ここで、なぜ投票に行かないのか、投票しないことは悪いことだと言われることが多い。
しかし、私はこれについても少し違ったものの見方をしている。
私の考えはこうだ。
「本当に民意が反映され、世の中が良くなっていくのなら、投票するに決まっているのでは?投票率も上がると思うよ」
これは市場原理から照らしても正しい予想だと思う。
良い商品は売れ、悪い商品売れ残る。次第にその流れは鮮明になり、価値の無いものは、どんどんと沙汰されていくだろう。しかし、問題は、既に機能していない選挙や投票制度にあるのかもしれない。なぜなら、投票率がいくら下がっても、その悪しき問題のある人気のない制度が維持されているからだ。
話は変わるが、私は、基本的に読者の読解力を信じている。そして、詳細な説明は、やはりめんどくさい。
ということで、ここからは物事の核心だけを簡潔に述べようと思う。あとは、各々がこういうことだから、こういうことなんだろうと推測してくれればいいと思う。
さて、話を進める。次に説明すべきは、選挙の意味だ。
選挙やって、政治家が変わっても、官僚が変わっても、何も変わらないよねと感じたことはないだろうか。私はある。
その前提で話を進める。
では、なぜ、民意などを全く反映していないにも関わらず、選挙や投票が未だに存在しているのだろうか。
なお、民意が反映されないというのは、現状を見れば一目瞭然だと思う。例えば、「本当にオリンピックを国民は望んでいたのか、サマータイムはどうだろう。裁量労働制はどうだろう。賛成だったとしても、その中身を本当に国民は望んでいるのだろうか」などを自分で考えてもらえればいいと思う。答えを述べると、投票や選挙などでは民意など反映されるはずがない。
もはやその結果がどうであれ、反映されるのは民意ではなく、経団連の意思や業界団体の意向、そして、政治家のお友達の意見だけ。
国民の意見や国民が望んでいることなど、なぜわざわざ反映しなければならないのか。
本気でそういった理想で考えられているのなら、私は、頭がおめでたすぎるのではないかと思う。
選挙や投票の意味だが、これは「国民の意見」や「民意」を反映するためのものではない。昔はそうだったかもしれないが、今は、性質が全く異なるものに成り下がってしまった。現状を見る限り、そうだ。
いくら選挙や投票をやろうと、投票率がどれだけ高かろうと、民意なんてものは実現されないし、ほとんど何も変わらないだろう。
では、なぜ選挙や投票が存在しているのか。
それは、今日の意味合いでは、国民に納得してもらい、国民に責任を背負わせ、国民があたかもやったつもり、国政の担い手として関わったつもりにさせるために過ぎない。
動画では、「私は選挙に行く、なぜなら実行家だからだ」と自慢されていたが、彼女たちは実行家では決してない。
そもそも投票所に行って、投票用紙を入れる、たったそれだけのことを実行家と呼ぶだろうか。
普通は呼ばない。
民主主義にとって最も重要なことは、投票やその結果自体ではなく、権力を監視し続けることにある。そして、それを実行と呼ぶのである。
自分は誰かを選んで、投票したから、それでおしまい。あとはその人に任せるよ、国民の義務をしっかりと果たしたぞ、自分は実行家である。そんな風に考えるのなら、それはとても危険だ。
そんなことなら投票に行かないほうがむしろ良かったかもしれない。
反対に、無投票であっても、彼らよりもっと重要なことを実行している実行家などいくらでもいるだろう。
ここで、政治家や立候補者の意図を読み取ることが重要になる。
彼らの意図とは、投票所に行って、投票用紙を入れる、それだけでやった気にさせることなのだから。
しかし、その結果、最終的にどうなるかは目に見えている。
つまり、「投票したんでしょ、投票権はちゃんとあげてたでしょ、なら、何をされても仕方ないよね」、「あなた達が選んだ、もしくは投票しなかったんだから、その結果は仕方ないよね」ということである。選挙や投票は、投票率がどれだけであろうと、たとえ100%であろうと、0%であろうと、そこに帰結してしまう。しかし、結論は変わらない。国民が本当に望んでいる政策なんて実行されるはずもない。
ここで、なにかおかしいとは思わなかっただろうか。日頃からなにかおかしいと感じなかっただろうか。
選挙カーが大音量で街なかを走り回り、大声で投票を呼びかけている。
本当に国民が望んでいることを実現してくれるのなら、わざわざ選挙カーで走り回り宣伝する必要なんてない。もしそうなら、わざわざ話を聞きに来る人がわんさかいることだろう。
「国民の皆さん、選挙に行きましょう」、「投票すれば必ず良くなります」、「投票率が低いからダメなんです、投票しましょう」そんな宣伝をたくさん見かける。
なにかおかしいと感じなかっただろうか。
私は、それでも自分の力を信じて投票するという人がいれば応援する。
同時に、無投票でもいいと思っている。
つまり、それは自分が決めることだ。
無投票であることをことさらに責め、あなた達が投票しないから悪いんだと言う理論は、もはや彼らの意図を全く読み取れていないのと同義だと思う。
最後に、最初に述べたことをもう一度述べよう。
国民が本当に望んでいる政策が実行され、民意が反映され、世の中が良くなるのなら、彼らはどう行動するだろう。
答えは、「投票するに決まっている」になるだろうと思う。
それに無投票なら無投票で意味があるというのが私の考えだ。
なぜなら、投票率が下がりすぎると、問題を解決しない人気のない制度を変えていこうという流れになりやすいからだ。
そして、既に攻略された同じ制度のままでやっても、私は結果は変わらないと思う。何も変わらないと思う。
変わっていくのなら、投票率も上がり、人気も維持されるはずだからだ。反対に、国民が本当に望んでいることとは正反対のことばかりやっていては、制度の人気も落ちていくのは必然だ。
しかし、仮に、国民が本当に望んでいることとは正反対のことばかりやってるにもかかわらず制度の人気が維持され、投票率100%とか言う場合は、むしろそっちのほうがやばいと思う。そこで「私には国民の100%の信任がある、国民は自分を選んだんだ、だから民意は私にある」なんて主張されても困る。
だから、投票するかしないかは自分で決めればいいし、無投票でも別にいいと思う。
少し変わっているが、それが私の考え方だ。
以上