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hugo/content/post/18-note.md
2024-04-23 22:21:26 +09:00

156 lines
6.6 KiB
Markdown

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date = "2023-07-30"
tags = ["note"]
title = "存在と幸福"
slug = "18"
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> 可愛らしいアオサギが外で鳴いていました。
>
> 私は、そのかわいくて、愛くるしくて、優しい優しいアオサギの幸せを願いました。
>
> では、アオサギの幸福って何なのでしょう。
>
> 一つは、おいしいカエルを食べることです。
>
> しかし、私はカエルの幸せも願っていました。
>
> かわいくて、愛くるしくて、優しいカエルの幸せを。
>
> では、カエルの幸せってなんでしょう。
>
> それは、例えば、アオサギに食べられないこと、たくさんの虫を食べること、子孫を増やすことです。
>
> 私は、すべての存在の幸せを願っています。
>
> 今回のお話は、その先の答えを書いてみようと、そう思いました。
### 人間と人間でないもの
先程、アオサギとカエルの話をしました。
その上で、私は、すべての存在の幸せを願いました。
これは、叶えられるものなのでしょうか。実現可能性はあるのでしょうか。
ある生命がいたとして、その生命は、他の生命を犠牲にすることで、成り立っています。
これは、生命に限らず、あらゆる存在が、そうなのです。例えば、その辺に転がっている石ころなども、そうですね。
もっと小さい世界を見ても、原子と原子がぶつかり合い、そこでは、存在をかけた数え切れないほどの戦いが、繰り広げられています。
人間にとって、アオサギの幸福を願うことは、すなわち、カエルの不幸を意味します。
逆に、カエルの幸福を願うこと、すなわちアオサギの不幸になりえてしまう。
ただ、これらは、人間が認識している世界領域での話に過ぎない。
実は、私には、人間の認識と、人間でないものの認識があります。
今回は、そのようなもののお話になるのでしょう。
### 人間でないものの認識
私は、ある認識を持ち、この世界を見ています。
その認識とは、すべてを同一として見ているという感覚、あるいは価値観です。
例えば、アオサギは私と何らかわりがない存在として見ています。これは心からそう思っていて、そう感じている。
カエルも同じです。そのへんに転がっている石ころやなんかも、私と何ら変わらない。
私は、そのへんに転がっている石ころと同じなのです。
これは、もっともっと小さなものでもそうですよ。
原子もそうですし...存在子もそうです。
すべて同じもの。
私は、このような認識を持ち、あるいは信念でしょうか。
そんなふうにこの世界を見ており、そうとしか見られない。
そのようなものなのです。
これを、そうですね。
「人間でないものの認識」と呼ぶことにしましょうか。
### 存在の幸福
私は、すべての存在の幸福を願います。
でも、それは叶わないものなのでしょうか。儚い夢なのでしょうか。実現可能性がないことなのでしょうか。
その答えを述べるなら、その願い、既に叶っているし、実現している。
例えば、人間でないものの認識からすると、それは、既に叶っている。そのような願いです。
この世界は、これ以上のものを作れない。そういう世界です。
そして、現実は全て正しい。
なぜなら、それが現実だから。これ以上の世界を作ることは、できません。
それほどまでに深く、信じられないほどに超越した世界なのです。
これを人間の認識で語ることはできません。
以降は、ほとんどの文章を人間でないものの認識で語ることとしましょう。
ここで、幸福というものについて考えてみることにします。
人間の認識ではなく、人間でないものの認識によって。
この世界には、最も小さく、この世界の元となっている存在子というものがあります。
その最も小さい...物質、ではないけど、物質としたほうがわかりやすいのでそう表現しますが、この物質の幸福について考えてみます。
この存在子には、存在の意識だけが宿ります。そして、存在の意識だけが宿るものを、すなわち幸福と私は呼びます。
この世界のすべての存在は、はじめからそれを持ちます。
この結論に至るまでの過程、あるいは理論において、私の人間としての認識と人間でないものの認識には大きな隔たりがあります。
ですが、その結論、あるいは答えは一致しています。
答えを述べます。
私は、すべての存在の幸せを願い、そして、それは既に叶っている。
アオサギであれ、カエルであれ、石ころであれ、すべての存在が、存在の意思を持ち、幸福を持つ。そのようなものなのです。
もちろん、それは生物としての幸福とは、ちょっと違うかもしれません。認識できるものではないのかもしれません。
人間として不幸な人生を歩んでいる者にとって、すべての存在は幸福だと説いたところで、それは受け入れがたいものなのです。
私も同じです。もし私が同じような人生を歩んだら、私は同じように考えたでしょう。
アオサギに食べられるカエルが本当は幸せだって?お前は何を言ってるんだ、と。
しかし、人間でないものの認識で言うと、そうなっている。
私が出す答えに変わりはありませんし、変わることもありません。
それが私の見ている世界の姿。
### 人としてどう生きるか
では、私は、人として、どう生きるのでしょうか。
あるいは、どう生きるべきなのでしょう。
正直に話すなら、どうしようもない、ということになります。
どう生きるべきかというものも、そんなものは本来ありません。考えなくてもいいことです。
私は、私として生きる。それだけ。
アオサギやカエル、石ころとなにも変わりませんよ。
とはいえ、そのへんの石ころと宇宙って何か違うものでしょうか。
私は、変わりない、同じものだと答えます。