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hugo/content/post/14-note.md
2024-04-23 22:21:26 +09:00

170 lines
10 KiB
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date = "2022-01-21"
tags = ["note"]
title = "神がやること"
slug = "14"
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> もしなんでもできるなら、あなたは何をしますか?
>
> 今回は、私が考える神というものについて書いていきたいと思います。
まずはじめに、神はいるのかいないのか。
私は、それについての答えを持ち合わせていません。
いるとも言えるし、いないとも言えると、そう考えているからです。
神はいると言う人に対して、私は「そうだね」と答えます。
反対に、神はいないと言う人に対しても、私は「そうだね」と答えます。
これは、一見、矛盾しているように見えますが、私の中では矛盾していません。
この世の中には、正しいことしかない、そんな風に感じることがとても多い。
つまり、「どちらも正しく、どちらも間違いではない」のです。
ですから、他人の考えに対して「そうだね、それも正しいし、それも間違いではないよ」と答えてしまったり、思ってしまったりする事が多いのです。
しかし、私が考える神というものは、人が考える一般的なそれとは大きく異なるかもしれません。
ですから、まずは、私が考える神というものについて、少し説明しなければいけません。
ここで勘違いしてほしくないのは、私が「神はいる」と考えているわけでもないということです。
仮に定義するなら、私はすべてであると答えます。
実は、言語と意識や心(気持ち)というものは全く異なるものです。
例えば、人間の言葉で表現した瞬間、それは、意識や心(気持ち)とは別のものになったりすることが多い。
しかし、あえて私が感じていることを言葉で表現するなら、私は、この世に存在するすべてを神とみなす。
ですが、これでは人が考える神というものとあまりに乖離するため、私はもう少し違った形で表現したいと思います。
そこで、最初の問いです。
「もしなんでもできるなら、あなたは何をしますか?」
どうでしょう。これについての答えを考えてもらえましたか。
おおよそ人は、なんでもできるものを神と呼ぶらしい。
ですから、もし自分がなんでもできる、そんな存在になったと仮定するなら、あなたは何をするのでしょう。
私の答えは決まっていて「おそらく、なにもしないだろう」というものになります。
一体なぜでしょう。
なんでもできるなら、例えば、美少女と恋人になるとか、お金持ちになるとか、成功者になるとか、または、神になるとか、あるいは、持病を治すとか、そんなことをまっさきに思いついた人がいるかもしれません。
ですが、私は、私個人としても、あるいは、神になったと仮定した存在においても、おそらく、なにもしないという選択を取ると思われます。
ですから、そのことを率直に表現した言葉が「おそらく、なにもしないだろう」です。これは、単なる感覚であり、感情です。
私は、私として、ただ、あるがまま、このような答えを出しました。
それは大それたことでもなく、ただ環境があり、そして、その環境によって私がいるだけで、その答えがこれだということに過ぎません。つまるところ、環境が良ければいいやつ、環境が悪ければ悪いやつ。それだけの話だと思います。
私がこんなふうに考えるのも、実のところ、私が考えたとかではなく、たまたまなのです。
偶然、私は、この世界をそんなふうに感じている、それだけです。
他の人の答えも、私の答えと変わりはありません。それがどのようなものであっても、ただ、あるがままなのです。
さて、なんでもできる神のような存在になったら何をするのかという話でした。
私の答えはなにもしないというものでした。
これは、この問いに対して私が瞬間的に感じたことに過ぎません。
実は、私はなんらかの問いに対して、瞬間的に答えが出ていることが多く、これまでの哲学的な記事は大抵そういったものになっています。
今回もその類なのですが、なぜそのように答えたのかも、多少は説明することが可能となります。
私が考えるこの世界は存在の世界であり、あらゆるもの、つまり、すべては、存在です。
ここからは以前書かなかったことですが、存在は、そのすべてがある種の意識を持つと考えています。
それがどういった形になるのか、人間である私には想像も及びません。とはいえ、人に想像できるものではない事が多いと思います。例えば、岩の意識はどういったものかなどですね。
確かに、岩は物体であり、そんな生きてもいないものなんかに意識なんてあるはずないと考えられる人もいると思います。
それは間違いではないし、正しいことです。
ですが、意識があるという考えもまた、私にとって正しく、間違いではないのです。
ここで何が言いたいのかというと、私は、すべてのものには何らかの意識が宿っている可能性を考えていて、それが、何もしない選択につながるということです。
例えば、植物はどうだろう、虫はどうだろう、人はどうだろう、石はどうだろう、細胞はどうだろう、ウィルスはどうだろう、地球はどうだろう。人の体の中で動き回っている寄生虫や細胞なんかはどうだろう。なんらかの意識はあるのだろうか。
考えれば考えるほど、あらゆるものに境界線がないことがわかるでしょう。
私達は意識を持ち、私達の体の中にも意識を持つと考えられる様々なものが動き回り、では一体、何に意識があって、何に意識がないのだろう。
私の答えは、全てに意識はある、でした。
実は、地球などの大きいものにもあると考えています。
これは、私達の体の中で動き回るそれぞれに意識があるのに、私達にも意識があることが関係しています。
もちろん、宇宙にもあるし、その外にだってあると考えます。反対に小さいもの、例えば、原子にも意識はあると考えます。
ただ、その意識というものが、どういった形になるのか、人間である私達には想像が及ばないものです。
モノの記憶というものについて聞いたことはありますか?
物体には、身の回りの出来事をある種の記憶をすることがあって、そういったものを読み取れる人がたまにいます。
記憶というのも、一種の意識の一つだと思います。
つまり、私達が認識している世界は、この世界のほんの一部に過ぎないということです。
話を戻すと、私はこんな風にこの世界を見ており、すべての存在に意識があるとそう考えているのです。
そして、意識を持つ存在一つ一つに対して、その形を変えること、変わっていくことには、一種の苦痛を伴うことも知っています。あるいは、そう推測しています。
ただ、それぞれの存在に対して、それがどのような苦痛になるのかは難しい問題です。
例えば、殴られたことが一度もない人が殴られるのと、ボクサーが殴られるのとでは、同じ力でも痛みが違ってきます。
痛みを感じる器官が存在しないとしても、その変化や苦痛は、その存在にとっては大きなものなのかもしれません。
では、最初の問いに戻りましょう。
「もしなんでもできるなら、あなたは何をしますか?」
ここで、私が「こいつはいいやつだから、長生きさせてやろう」と考えたとします。
私はなんでもできるので、そんなこともできるのです。
しかし、その人が長生きするということは、その人の周りにある他の存在は、例えば、物だったり、植物だったり、食料となる動物だったりが、消費され、傷つき、変化していく、ということでもあります。
それ自体は悪いことでもなく、いいことでもありません。
ですが、私にとって、この世のすべては等しく愛すべきものです。
ですから、私が何かを優遇したり、あるいは劣遇することはなく、結果として、私はなにもしないでしょう。
例えば、神に祈りを捧げたやつは優遇しよう。反対に神を信じない愚か者はひどい目に合わせよう、などのようなことは考えません。
神に祈りを捧げる人も、捧げない人も、信じる人も信じない人も、全てを等しく、あるがまま見守るだけなんだろうなと、そんなふうに思いました。
このようなことを書くと「神に祈りを捧げたやつは助かっているぞ」と言う人がいるかもしれません。
ですが、私は、神に祈りを捧げたか否かに関わらず、たまたま助かった人、たまたま助からなかった人がいるだけだと答えます。仮に神に祈りを捧げたにもかかわらず助からなかった人の話は人間からはなかなか上がってこないので、そういった事が起こるのだろうと、仕組みを説明します。
もしなんでもできるなら、おそらく、私は何もしないでしょう。
なぜなら、すべての存在が等しく同じで愛おしいのなら、そうするしかないからです。
あるいは、私の言葉に言い直して、この世界は存在の世界。存在とはこの世界そのもの、すべてであると。
そんなことを思います。
ですが私は、人として、いろんなことをやっていきたいと思っています。
そのへんは勘違いのないように。